医局の歴史

前史

長崎大学医学部整形外科学教室は、永井三郎を初代教授として昭和29年(1954)開講した。100年史には開講間もなく、教室の所在を示す資料は少なかった。約50歳の現在の教室が全国諸大学に伍することができるのは、長崎大学の他の教室のご援助・ご協力のみならず、長崎大学が特有する歴史的素養(財産)があったためと思われる。 江戸時代においてもオランダ語の医学書より得た知識をもとに骨折、脱臼の治療がなされ、幕末期に創設された長崎海軍伝習所では“繃帯学(ほうたいがく)”として、明治にはいると“整骨科”さらには、外科学の中で「整形外科」の教育、診療が行なわれていたのである。長崎における「整形外科」は一つの講座として診療、教育、研究にあたることはなかったものの、昭和29年にこつ然とあらわれたものではなく、それに先立つ数百年の間、育まれ続けていたのである。従って、昭和29年以前の「整形外科」を振り返ることも意義深いことであろう。まずはその歴史すなわち前史をひも解いてみることにする。

南蛮外科期

1552年(天文25年)初渡来したポルトガル系ユダヤ人ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida)は、1567年(永有10年)長崎に入り布教活動を行ないながら、医療にも従事し南蛮外科を伝えた。

蘭学期

徳川幕府の鎖国時代、唯一海外に開かれていた長崎を通じて西洋の新しい医学知識が伝えられていたが、とくに鎖国令の発令間もない1649年(慶安2年)に来日したオランダ人医師カスバル・スパンベルへル(Casper Schamberger)はオランダ流の外科を我が国に紹介した。その流れを汲む長尾宗治は著書「紅毛外科」の中で関節拘縮の矯正術として重錘牽引法が行なわれたことに触れている。

その後も、出島のオランダ商館の医師が持ち込んだヨーロッパ各国の医学書のオランダ語版を、奉行所の通詞(通訳)を勤めていたものが日本語へと翻訳した。通詞のなかには医師へと転ずるものもおり、これらは通詞外科と呼ばれ私塾を開き、全国より集まった医学生に対して断片的ではあるが西洋医学の教育を行なっていた。楢林塾、青堆塾などが有名であり、とくに楢林鎭山(1648~1711)はフランス人アンプロワス・パレ(Ambroise Pare . 1510~1590)の外科書の蘭訳本を翻訳し、「紅夷(毛)外科宗伝」(1706)としてあらわした。この中には、四肢切断時の止血法として、従来の烙鉄による焼灼法に代わる血管結紮法が紹介されている。

また、脱臼の整復法や骨折の固定法については図解が附されている(金瘡跌蹼)。「解体新書」で有名な杉田玄由の師であった吉雄幸作(耕牛 1724~1800)の吉雄塾でも、約2年間の教育過程の教授項目の一つとして整骨法が取り上げられていた。一方、柔術の救急治療法より発展し骨関節損傷の治療にあたる者たちもいた。長崎においては吉原元棟(杏蔭斎)が杏蔭流整骨術の一派をなし、その弟子であったが浜田藩二宮彦可は中国医学と西洋の包帯学を参考として「正骨範」(1808)を出版した。また、その子二宮督は16の正骨手技を描いた「正骨原」の一軸を残した。 1823年(文政6年)、オランダ商館付医師として来日したドイツ人シーボルト(Philip FranzBarthazal von Siebold 1796-1866)は幕府の特別の計らいにより出島外での行動を許可され、吉雄塾や楢林塾での出張講義を行なった。さらに翌文政7年には鳴滝村(現長崎市鳴滝町)に私塾(鳴滝塾)を開設し、全国より集まった俊英に対して系統的な医学教育を行なった。これは患者を前にした臨床重視の医学であり、様々な手術も供覧しているが、兎唇の形成術も行なわれたと伝えられる。しかし、1828年(文政11年)当時禁制であった日本地図を持ち出そうとして発覚、彼は国外追放となり(いわゆるシーボルト事件)、幕末から明治初期の日本の医学を担った多くの人々を育てた鳴滝塾も解体した。

医学校での「整形外科」

長崎大学医学部の起源は、1857年(安政4年)11月12日の医学伝習所の開設にさかのぼる。この日オランダ海軍軍医ポンぺ(Johannes Lydius Catharimus Pompe van Meerdervoortw 1829-1908)は、長崎奉行所(西役所・現在の長崎県庁所在地)において教壇に立ち12名の学生にたいして西洋医学の講義を開始した。


幕府は列強の進出に対抗できる西洋式海軍を新設するために、オランダ政府の援助によって長崎海軍伝習所を作ったが、彼は第2次長崎海軍伝習所医官として、西洋医学伝授の命を帯びて来日したのである。物理学、化学、解剖学(一般解剖学、骨学、靭帯学、筋学など)、生理学、衛生学、病理治療学、薬理学、内科学、外科学、眼科学、繃帯学などが教授された。1861年(文久元年)9月20日、長崎小島郷稲荷岳(現在の長崎市西小島1丁目)に医学所ならびに養生所が開院した。ここでは、かつてポンぺ自身が学んだオランダのユトレヒト(Vtrecht)の軍医学校のカリキュラムに従って、日本で初めての系統的な病院臨床実習が行なわれた。腱切り術の業績によって手術的整形外科の始祖と謳われたストロマイヤー(George Frederic Louis Stromeyer1804~1876)の外科書に基づいた講義が行なわれ、当時のドイツ整形外科が伝えられた。ポンぺの講義内容は彼の高弟の一人であった松本良順の翻訳筆記による「朋首瘍科学説」に残されているが、ポンぺ自身も「日本滞在5か年記(Vijf Jaren inJapan)」の中で包帯学実習の様子について触れている。

ギプス包帯はオランダの軍医マタイセン(Mathijsen)によって1852年発明されたものであるが、これを日本に初めて紹介したのもポンぺであった。このように、当時のヨーロッパにおける整形外科の知見は彼を通じて外科学と包帯学のなかで教授されたのである。1862年10月25日、ポンペ帰国(1862年11月1日)にともない、かつてのポンペの恩師であったボードイン(Anthonius Francoise Bauduin)がその後任として来日した。

彼は、精得館と改称された(1865年(慶應元年)4月30日)長崎養生所、医学所を西洋式病院と医学校に拡充するよう指導した。彼も骨関節疾患について系統的な講義を行ない、「抱氏外科書」としてその講義論が残されている。その後もユトレヒト軍医学校出身のオランダ人医師によって医学教育がなされ、幕末期から明治中期にかけて十数名の欧米人教師が長崎での医学教育に当たった。

明治元年(1868年)11月30日、精得館は長崎府医学校と改称され、その第4等課程において繃帯学が講義されることとなった。なおこの時の頭取医師(校長)は、後に日本の医療潮虔の近代化に尽くした大村市出身の長与専斎(1838~1902)であり、教頭はマンスフェルトが勤めている。

明治4年(1871年)に設置された文部省はフランスの学制を参考にして、明治5年(1872年)9月5日、日本の学制を制定した。そのなかで、医学教育の中に“整骨科”(医学教則;第7級~4)繃帯学(同教則:第8級~5)をもうけることが定められた。

明治9年(1876年)6月の“長崎医学校創立二付病院長吉田健康登京請求之書籍器械目録)には、“関節維持人骨”、“糸椎人骨”、“トロスへル繃帯書”、“ハミルトン氏の骨折書”、“ラホヲト氏繃帯書”、“フリイデル打撲論”などの購入予定の標本、書類が記載されている。さらに明治11年5月到着分には、“ハミルトン氏関節学”もみられ、当時かなりのレベルで整形外科教育が行なわれていたことが窺われる。

明治15年に発布された長崎県長崎医学校規則の第4章;第21条には“外科学附梅毒及皮膚病論 器械学 繃帯学”の講義内容として「……第4級二於テ炎論外傷論腫瘍論脈管論神経病論等を教へ第3級二於テハ骨病論関節病論粘液嚢及腱鞘病論筋及腱病論手術論等ヲ授ケ‥‥‥」などが上げられている。

明治15年6月より大正6年まで、長崎医学校1等教諭として教鞭をとった田代正(明治15年東大卒)は、外科学教授として外科総論、外科各論、器械学、繃帯学、梅毒病及皮膚病学、外科臨床講義などを担当したが、包帯学、整骨科も兼任した。田代教授の講義録「外科通論(前編)」には、骨折、関節炎などが記載され、彼によって教育されていた当時の整形外科学の内容を窺うことができる。 

1895年(明治28年)、Wilhelm Konrad Rontgen(1845-1923)によってⅩ線が発見された。明治31年(1898)、ドイツ留学中であった陸軍軍医学校教官芳賀栄次郎は帰国に際して、ジーメンス・シュミット社製のレントゲン装置を購入し、我が国へ初めて導入した。長崎でも、明治30年代には外科学教室にレントゲン装置が購入され、主として骨疾患の診断に用いられた。

日本初の整形外科学教室の開講(東大)と日本整形外科学会の発足

明治に入ってしばらくの間は、日本の外科学の教育はオランダの軍医学校のカリキュラムに基づいて行なわれていたが、これが急速にドイツ医学へと傾いていった。明治4年(1871)ドイツ陸軍軍医ミュラー(Leopold Benjamin Carl Muller 1824~1893)が大学東校(東京大学の前身)に外科学の教師として来日した。その後も明治7年(1874)シェルツ(Emil August Wilhelm Schultze 1840~1924)、明治14年(1881)スクリバ(Julius Karl Schlba1848~1905)が来日し、蒸気滅菌による消毒法、エスマルヒ駆血帯、ギプス包帯法など当時のヨーロッパにおける最新の知見が伝えられた。その後これらの門下生が全国の医学校へ赴任し、日本の外科学は充実発展していった。 明治31年(1898年)4月、第一回の日本外科学会が開催された。ちなみに第1回の外科学会には小川三之助より「先天性股関節脱臼の2例について」、田代義徳より「悪性腫瘍の手術的成績」などが報告されている。その後も整形外科学の研究成果は日本外科学会において発表された。 その8年後の明治39年(1906年)4月4日、東京帝国大学医学部に我が国最初の整形外科学教室が開講し、初代教授として田代義徳が就仕した。彼はOrthopische Chirurgieを「整形外科」と命名した。続いて、明治40年(1907年)5月・京都帝国大学医学部にも松岡道治を初代教授として整形外科学教室が開講した。さらに、大正2年(1913年)1月15日、九州帝国大学医学部に3番目の整形外科学教室が開講し、初代教授として住田正堆が着任した。 大正15年(1926年)4月3日には、田代義徳を会長として第1回日本整形外科学会が開催された。ちなみに、欧米の整形外科学会の発足は米国が最も早く1887年であり、外科学会の独立反対にあったドイツでは、やや遅れて1901年に創設されている。

長崎における整形外科学教室誕生の頓挫

長崎医科大学において田代教授の後、整形外科の講義を担当したのは望月成人教授と浜田三郎助教授などであった。望月成人教授は、大正11年(1922年)整形外科学研究のためドイツ、英米へ留学したが、帰国後も整形外科学講座は開かれず、昭和2年11月3日、京都府立医大へ外科教授として転出した。海軍軍医少佐であった浜田三郎も、物理的療法科助教授として大正13年12月より大正15年8月15日まで整形外科の講義を担当した。このように、大正期に長崎においても整形外科学教室の誕生する機会はあったものの実現しなかった。しかしながら、実際の診療面では昭和9年(1934年)附属病院に整形外科病棟が新設され、昭和11年(1936年)には整形外科病棟にエレベーターがつけられるなど開講の準備は行なわれていたようである。第3外科学教授を勤めた辻村秀夫は、整形外科学修得の目的でドイツ、オーストリアへ留学し、主として整形外科学を担当したが、学長に就任した古屋野宏平教授の後を受け第2外科教授に転任し(昭和20年12月22日)一般外科を担当することとなったため、またも整形外科学教室の開講は実現しなかったのである。昭和20年(1945)当時、整形外科学教室を持っていたものは旧帝国大学(但し、北海道大学は昭和22年開講)、新潟(大正6年)、慶応義塾(大正11年)、慈恵医大(大正11年)などわずか19校にすぎず、九州では九大のほか久留米(昭和7年)、鹿児島(昭和20年)のみであった。 昭和23年医学教育基準分科会委員長報告によって、整形外科学の授業時間率を2%とすることが定められた。因みに外科学は8%、眼科学は2%であった。これを受けて、長崎でも国立長崎大学設立計画概要が定められ、外科学に3講座を配し、第3外科が整形外科学を担当することととなり整形外科学教室開講の準備が進められた。この時期、全国の医学部・医科大学には整形外科学講座の新設が相次いだが、旧六と呼ばれる伝統ある千葉、金沢、岡山、熊本、長崎の各医科大学に講座が開催されたのは遅く、いずれも昭和29年になってからであった。

整形外科教室の誕生

長崎大学における整形外科的疾患の講義および診療は、我が教室の誕生以前は前述したように外科学教室において行われていた。当時の外科の入院患者名簿によると、整形外科的疾患の占める割合は、第一外科(調外科)では昭和26年14%、昭和28年16%、第二外科(辻村外科)では昭和27年16%、昭和28年18%、昭和29年10%であった。外傷、瘢痕拘縮、骨関節結核等が主で、瘢痕拘縮の症例が多いのは原爆被爆の影響と思われた。先天性疾患については、先天性股関節脱臼が第一外科で、内反足が第二外科で治療されていた。以下の経緯で初代教授が選考された。昭和28年6月8日、定例教授会において整形外科教授選考委員会に設置委員会が設置された。昭和29年5月12日、臨時教授会において、徳島大学医学部整形外科教授永井三郎を教授として招聘することが承認された。昭和29年8月1日 整形外科学講座は開講した。

永井三郎教授時代(昭和29年~昭和45年)

永井は昭和29年8月に長崎に着任した。教授室と助教授室として外科の旧手術場が用意されていた。現存する外来カルテによると記念すべき外来患者第1号は昭和29年10月15日来院した。30歳の男性であり脊椎カリエスと診断されていた。入退院名簿、手術名簿によると、入院第1例目は筋性斜頸の5歳の子供で、昭和29年11月4日に入院し同日、腱切り術が行われ、これが手術症例第1号でもあった。術者は教授、助手は難波(後の形成外科初代教授)と反田であった。我が教室の博士第1号は野島 治で、昭和31年3月14日に「末梢神経移植に関する実験的研究」という論文で授与された。開講当時の関連施設としては、長崎県立整肢療育園がまず挙げられる。

昭和29年12月1日に開園され、同時に教室より医師派遣が開始された。その後、医局員の増加に伴い、関連施設の数は順調に増加していった。難波は米国のDr. Barskyの下での留学(昭和33年7月~昭和35年1月)を終えて帰国し、昭和35年1月形成外科診療班を組織した。これが長崎大学における形成外科診療の始まりであった。 昭和40年4月1日、2日、3日 長崎市公会堂、自治会館で第38回日本整形外科学会が開催され約2000人が参加した。また第1回西太平洋整形外科学会(会長、三木東大教授、副会長、河野新潟大教授、永井長崎大教授)が雲仙で開催された。この年、教室は開講10周年を迎え、同門会員数は約80名であった。 玉置助教授は、昭和42年2月、東北大学附属温泉医学研究施設リハビリテーション医学部門に教授就任し長崎を去った。同年3月難波雄哉が助教授に昇任した。リベラルで、柔軟かつ順応性豊かな、永井教授は、教室員の自主性、資性、感性を重んじる姿勢を強く打ち出され、難波、三原(茂)、弓削、朝永、古川等、第一期黄金期ともいうべき、優れた人材の輩出をみたのは、その辺に起因するのであろう。 昭和45年5月、永井教授は日本整形外科学会名誉会員となり、昭和45年6月、病のため教授を退官した。

鈴木良平教授時代(昭和46年~昭和63年)

昭和46年2月1日、福島県立医科大学教授であった鈴木良平が第2代教授に就任した。鈴木は足の外科、歩行分析、先天性股関節脱臼などの業績があり、以後これらが当教室の主要研究テーマのひとつとなった。鈴木はRiemenbugelを本邦に最初に紹介し、長崎でその脱臼整復理論を完成させた。昭和45年より英国に留学していた渡邊は、彼の地での見聞をもとに昭和47年、Charnley type人工股関節置換の本学での第1例目を施行した。昭和51年、形成外科は整形外科と一線を画し独自の診療を行う事となった。昭和52年の大学病院の新病院移転にともない、医局も分離した。さらに、昭和54年4月には、正式に独立した診療科として発足した。同年10月には難波がその教授に就任し、整形外科と形成外科は名実ともに分離した。

昭和54年11月難波の後を受け、岩崎勝郎が整形外科の助教授に就任した。開講20周年の昭和50年には同門会員数は約120名であった。昭和50年代から60年代にかけて教室員の増加とともに、関連病院は更に増え11年間に15の関連病院が誕生した。これは、高齢化社会を迎え、整形外科にニーズの増大を反映したものと考えられる。昭和60年4月、同門の穐山富太郎が長崎大学医療技術短期大学部理学療法学科教授に就任した。昭和62年4月、池田定倫が長崎大学医療技術短期大学部理学療法学科教授に就任した。昭和63年4月理学療法部が附属病院に新設され、副部長に乗松が就任した。昭和63年3月31日、鈴木は定年を迎え退官し、名誉教授となった。この年、同門会員数は約280名となった。

岩崎勝郎教授時代(昭和63年~平成8年)

昭和63年11月16日、岩崎が整形外科第3代教授に就任した。助教授は平成元年12月より、乗松敏晴が、続いて伊藤信之が勤めている。平成2年4月、同門の田島直也が宮崎医科大学整形外科教授に就任した。平成4年4月には、松坂誠應が池田の後任として長崎大学医療短期大学部理学療法学科教授に就任した。 平成6年12月時点での関連病院数は35、同門会員数は322名であった。臨床においては、岩崎を中心とした股関節班、伊藤を中心とした肩関節、肘関節、脊椎班、平野らの腫瘍班、今村らの手外科班、寺本らの膝・足班で活動しレベルアップされた。基礎医学的研究も充実し、開講以来、平成6年までに147編の博士論文が作製されている。

進藤裕幸教授時代(平成9年~平成23年)

平成8年6月13日 岩崎教授が病没され、平成9年10月16日、進藤が整形外科第4代教授に就任した。教授就任より現在に至るまで、医療、医学、医育制度における諸環境は終戦以降における最も過激なる変革の時代であるが、岩崎教授時代の診療、教育、研究体制を継承、発展させている。当教室も開講50周年としての節目を迎え、平成16年10月16日開講50周年記念行事、祝賀会を行った。今後の教室の発展には研究、診療、教育の各分野でのバランスのとれた実践が求められる。また診療では高度先進医療を視野に入れた先端的医療の実践、研究でも高い能力の人材が求められる。これらの時代的、社会的ニーズに対応するように教室は日々努力し、今年中にはコンピュータアシストの手術技術の導入も決定している。

また基礎的研究テーマは

  1. 骨・軟骨の分子生物学的アプローチによる再生医学への応用、
  2. 骨・関節感染症へのbiofilmの関与と、その臨床応用、
  3. 大腿骨頭壊死症のSHRによる動物モデルの作製、
  4. アジア版人工股関節の開発、
  5. 大腿骨頚部骨折の新治療用具(CHS)の開発(米国との共同研究)、
  6. 大腿骨頚部骨折における骨粗鬆症薬剤による対側への防止効果のCohort研究、
  7. 変形性関節症の新治療薬としてのペントサンの開発研究(ドイツならびに薬理学教室との共同研究)

があり、徐々に国際学会にも成果の発表も増え、2006年秋には長崎で第21回日本整形外科・基礎学術集会が開催された。このように伝統を維持しながらも、研究のすそ野は広がってきており、近い将来さらに大きな成果が得られるに違いない。


昭和29年に整形外科学講座が長崎大学に開設されて以来、数多くの諸先輩の努力およびご支援により当教室は発展してきた。高齢化社会の到来を迎えた今日、整形外科の重要性は益々増大し、その内容も多岐に及び専門化されてきている。また、医療、福祉行政の見直しも急務とされ、変革の時代に入っている。このような時代の要請をうけ、整形外科学は益々発展するに違いないが、その一翼を担うべく当教室は先輩の残した礎を発展させ、未来へ伝承させていった。平成23年3月31日、進藤は定年を迎え退官し、名誉教授となった。

尾﨑誠教授時代(平成23年~現在)

平成23年9月1日、尾﨑が整形外科第5代教授に就任した。

参考文献

  1. 今村 宏太郎:開講40周年記念業績集 平成6年
  2. 朝長 匡:開講40周年記念業績集 平成6年